「音楽/彫刻 」に就いて
私の作る音楽作品は、彫刻作品である。私の彫刻作品を成立させる構造を、そのまま
音楽に置き換えているに過ぎない。無論、表現媒体が違えばそれなりの問題は生じるの
で、その解決策として、各要素の分割化、自立化を、より強く行っている。
「音楽/彫刻 」というタイトルは、正確には音楽ノ彫刻/音楽/彫刻ノ音楽/彫刻/音
楽/彫刻/音楽/彫刻/・・・と無限にルーブしていくのだが、便宜上、そう表記した。
「彫刻/音楽 」と表記しても全く構わない。
「音楽彫刻」という言葉自体は元々、マルセル・デュシャンの制作メモの中にあり、意
識しているのは言うまでもない。しかし、私の目指すべきところは、デュシャンの音楽彫刻
ではない。なぜなら音楽彫刻は、ジョン・ケージによって完成されているからである。
デュシャン−ケージヘと継承された現代音楽の系譜は、音楽の、音への還元へと向かっ
て行った。ケージを含む多くの音楽家、美術家が躍起になって行った還元化は、ブライア
ン・イーノ等のミニマルミューックを極に、引繰り返ってしまう。クリスチャン・マークレイが認知
されるのは、還元化の系譜上ではないのだ。現代音楽のそうした展開は、現代美術の
展開とパラレルで、ジャッドが引っ繰り返した美術の様に、細分化し、分裂化し、リゾーム
化してしまった。換言すればモダニズムー・ボスト・モダニズムの歴史であり、現在ではポス
ト・ポストとでも言うべき状況なのではないだろうかと私は考えている。
「モダン」の空洞化の轍に昆えるが、むしろボスト・モダンの状況よりもモダニズムを意識
せざるを得ない。モダニズムが無くなった訳ではないからだ。空虚に見える空間が、見方
を変えると、空気で充たされている事を知る様に、ある切り□を持たなければ見えないだ
けなのだ。そして、モダニズムを逆説的に強く意識していく事は、この現状での表現では
必要不可欠である。そうした理由から、私はモダニズムの二大要素のひとつである彫刻を、
否定することなく検証して来た。それを音楽に置き換えた場合も、それは変わらない。
私は音を還元化したりはせず、むしろ音楽化へと向かう。
市川武史
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