遊戯音楽に就いて

「遊び」を辞書(岩波国語辞典)で引くと、幾つかある意味の中に、仕事がない、または仕
事をしないこと。とある。「遊ぶ」と引いても、価値ある事をせずにある。とか、有意義
な働きをしない状態にある。等、同じ様な意味が見える。一般的に、遊びとは、大きく分
けて二種類の受けとめられ方がある様だ。ひとつは、ゆとりや楽しみ、といった、肯定的
なニュアンス。もうひとつは、上に挙げた様な、非生産的で否定的な調子だ。肯定的な方
も、あまり生産性と結び付いた様な感じはしない。
古語で「遊び」とは、心身を実生活から解き放って熱中、陶酔することで、歌舞、音楽、
狩、宴会や宗教的行事をする事にも言ったそうだ。
現在使われている言葉の意味との、繋がりは感じられるが、微妙に違う。それは、言葉を
支える社会の状況の違いが原因だろうと思われる。古語の方には社会と宗教が、現在の方
には社会と生産が、それぞれ直結して見える。産業革命以降の物質的な生産性の追及が、
 「遊び」という言葉のニュアンスを変えてしまった様だ。そして、一直線に生産へと向か
う社会の流れの外側に追いやられたその言葉は、その真ん中に居る人には少し合わなくなっ
てしまった。その代わり、生産に必死になる必要の無い、少数の特権階級にはピッタリと
フィットして行った。大金持ちもそうだが、それよりも享受していたのほ子供だった。私
が子供の頃、遊びは全ての中心だった。通常は、成長するに従って社会の外側には居られ
なくなり、物質的な生産性と関わる事を余儀なくされて行き、遊びとの距離を持って行く。
というのが正しい成長なのだか、私はあまり、そうした正しさは持てなかった。物質的な
生産性よりも、精神的な生産性へと向かう、美術へと繋がる道を歩いたからだ。そして今、
形に見えぬまま大きく変化している時代にあって、遊びはこれまでとは反転して、新たな
生産性を獲得しているように見える。野放図なものではなく、コントロール可能なエネル
ギーとして捉える試みとして、遊戯音楽を作曲した。

                                                  市川武史