新能−華−に就いて

新しい能は作れないだろうかと考えていた。日本の古典芸能は元来好きだったのだが、
一時期、シテに霊が憑依するかのごとく、取り憑かれた様にして能を見た。
私は国粋主義者ではないが、自国の文化に対して自覚的でなければならないと考えている。
その為に日本中を旅して廻り、古寺を巡り、1200年以上に及ぶ造形の歴史を見た。それは
グローバリズムが進みローカリズムが浮き上がってきている21世紀を生きる表現者にとって
必要な事だと感じていたからだ。単なる先祖返りな表現では意味が無い。今、現在、国
際的に通用する、本質的な表現の強度の秘密が知りたかった。
 能はフォーマリズムだった。動きは型と呼ばれ、特殊なものを入れても250種程しか無い。
それだけで1700種残っているといわれる曲の全てを網羅してしまう。
観阿弥、世阿弥父子にって完成された申楽の能は強固な形式を作り上げた。400年もの間、
一子相伝として世に出る事の無かった秘伝書に書かれている内容は、微に入り、細にわたって
徹底した形式主義で、それが故に400年間、約束が守られたのであろう。
新しい能などありえない。フォーマリズムは、その枠組みから一歩でも出てしまうと成立しないのだ。
 新しい「能」は論理的に不可能だ。しかし、「新能」と言う名の、別の形式はありえるだろう。
それは能であって能でないものだ。能を支える構造のみを継承する事は不可能ではない。
そうした事で本質的な強度の継承をし、21世紀にしかない要素と交雑する事で、現在的な
展開ができないだろうかと考えた。(要素とは、例えばアメリカでダンスを学んだ日本人舞踏家
の存在や、日本音階をサンブリングマシンでループさせるといった事である。
能を支える構造の必要最低条件を、世阿弥の多くの著書から拾い上げ、それを元に新たな
枠を組み、作られたものか−華−である。音楽を先に作り、それを元に、一度、舞踏
家が動きを付け、それを私が少し補正し、共同で形を作っていった。
私は以前、具象人体彫刻を激しく否定していた。しかし、新能−華−は私の初めての具
象人体彫刻と言えるかもしれない。                              市川武史