Intercomunication 

どうしちゃったんだろう、東京画廊は? そんな思いを抱かせるような展覧会が始まった。題して「気体分子アート bit展」。東京画廊といえば現代美術の画廊の老舗。先日、他界した斎藤義重、そして「もの派」と称される李禹煥や菅木志雄、さらに中国や韓国の現代美術、読者の中にも訪れた居る筈の比田井南谷展など、どちらかというと作家の世代も高く、渋い雰囲気の展覧会が多かった。ところが件のDMを見て、えっ?と驚いた。ニコニコ顔の若い女性のアップとスカートを履いた若い男性の写真。しかもこれまでになくカラフル。もっとも子細に見ると李禹煥と彦坂尚嘉の共同企画となっているので、基本的な姿勢は変わら ないのだろう。
 さて、この「気体分子アートbit展」。数回に分けての連続企画で、第一回目が市川武史と吉田暁子の二人展。DMの写真の二人で、市川は「スカートをはいた彫刻家」、吉田は「日本画科出身の画家」と紹介されている。では二人の作品を見てみよう。
 市川武史
 私が初めて見た市川武史の作品は薄い透明なフィルムで出来たバルーン。それが小さなギャラリーの中で沈みもせず、浮き上がりもせず、宙空に漂っている。ヘリウムガスを用いているのだが、空気との混合が絶妙なバランスを保っているのだろう。それにしても不確かで曖昧な空間が出現していた。
 今回の東京画廊での作品は二つ。 一つはギャラリーの壁から壁に二本の細いスチールワイヤーが張られ、そこに床に置かれたカセットデッキとコードで結ばれた小さなスピーカーが二つ設置されている。スピーカーには薄いフィルムが貼られ水滴が垂らされ、カセットデッキから彼の作曲になる音楽が流れると、その振動で水滴が微妙な動きを示すという仕組み。もう一つは和紙で巻かれた線香。それが壁や白い台座に付けられている。微かな煙を上げて燃える線香は、和紙の焦げる匂いとともに床に灰を積もらせて行く。会期中、線香は取り替えられるが、積もった灰はそのままに嵩を増して行く。
 彫刻...。そう、スカートを履いていようがズボンを履いていようが、彫刻家である市川が制作したこれら一連の作品は彫刻。ブロンズや石膏、木といった既存の彫刻素材とは遠く離れ、しかも堅固な構築性とか量塊の持つ重厚な存在感とは全く無縁だ。だが紛れ
もなく彼の作品は彫刻。ただ形を施されたものがガスであったり、煙と灰であったり、さらには水滴の振動という物理的現象であったりするだけだ。
 彫刻における近代の始まりは、作品が台座から離脱した時からとされている。そうした意味でも市川は台座の存在をあからさまにする。バルーンの作品ではバルーンと同じ比重のギャラリー内の空気、それ以上にギャラリー空間それ自体が台座として機能している。煙や灰の台座は線香と壁が二重に台座となる。水滴の振動にいたっては目に見える作品の部分全体が台座といってもおかしくはない。
 どこから考えても彫刻としか言えない作品、どこから見ても彫刻とは思えない作品。だから市川の作品の本当の楽しみ方は、彫刻について真面目に考えることの中にある。揺るぎない、しっかと台座に据えられた立体物としての彫刻作品に思いを馳せながら...。
 吉田暁子
先に記したようにこの展覧会は二人展。会場に足を踏み入れた時、市川の作品は先ず目に飛び込んで来た。だが吉田暁子の作品は?と思っているとギャラリストの一人が「目が馴れると分かる」と教えてくれた。 しばらく、ぼんやりと壁や天井を眺める。おぼろげに見えて来た。この会場の内装も現代美術のギャラリーお約束のホワイトキューブ。壁も天井も白。そこに同じような肌合いの白く薄い矩形の和紙が所々に貼らされているのだ。それが光の具合に
よって、見る角度によって姿を表す。 まるで霞のようだが、クモの巣のようにも、壁に溜まった埃のようにも見える。
 で、これは何、インスタレーション? いや、彫刻家の市川が制作した作品が彫刻なら、「日本画科出身の画家」である吉田が制作した作品なら絵画に相違あるまい。とすれば、麻紙やキャンバスといった通常の絵画の支持体の代わりを、ギャラリーの壁や天井が担っていると考えればよい。なおかつ「日本画科出身」を敷街して日本画として見る。すると唐突に思い浮かぶのが「洛中洛外図」などの大和絵。上空から雲の間に間に習俗や風景を描いた作品群。吉田がギャラリーのそこここに貼った和紙を雲と見るなら、貼られていない部分を建築物の一部ではなく抽象的な形態と捉えるなら、一つの絵画空間がそこに出現する。さらに大和絵は日本画が世界に誇る立体平面である屏風画として描かれることが多かった、という事実からすれば、ギャラリー壁面の凹凸も立体平面として見る者に眼前に拡がる。
 ところで、吉田のこの作品は会期初期と後半では様相を異にしている。それは吉田が会期中、貼った和紙を少しずつ剥がしているからだ。日焼けした背中の皮を剥くように。 日々、姿を変える剥がされた痕跡は、幾分ささくれだったようになり、墨 のばかしや溶みに似た影を落とす。 ただし、そこに「あえか」といった語彙や、「わび・さび」といった湿度は感じられない。行為の手つきが淡々と残されているだけである。出来るならば、毎日の変貌をフィルムに収めたものを、コマ落としのような映像で見てみたい。立体平面絵画にさらに時間軸がプラスされたものとして。
 さて、市川と吉田の二人展。コラボレーションというのではないようだが、どこか同質なものを感じて違和感がない。世代や資質に共通項があるのだろうか、それとも村上隆が、大和絵からアニメまでも含めた日本の文化的作物を「スーパーフラット」ととして括ったように、連綿と続く日本文化の流れの中から特異点として掴み出したものが同一のものだったのであろうか。(提)

                                                  Akio Sagegami提髪明夫

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