芸術ではないかもしれない


 私はこれまで、「浮遊」をコンセプトの主軸とした作品を数点、制作してきました。浮
遊する作品は、それら自身が物質の特性によって、文字通り浮かび、遊んでいます。
 始まりは、自らの内にある、ある種の浮遊感ともいうべきものからでした.哲学や芸術
を思考する自らの内に、依拠すると同時に離反する自己を見、その浮遊感は、気付けば空
気の如く偏在していました.全ての場に自分の場所は作り出す事が可能で、同時に何処に
も自分の場所は無いというパラドックス。それは爆発で星が生まれる事に似て相反する事
柄を互いに内包していました。その感覚を先ず私は音声に置き換え、イメージとの隔たり
を感じ、次に実際に物体を宙に浮かばしてしまうという具象策に出ました。何枚ドゥロー
イングを描いても辿り着けなかったイメージは、制作を経て、現実に立体となって立ち現
れた時、辿り着くと同時に私自身を超えて行きました。イメージし切っていた筈のものは、
いざ目前に現れると捉え切れなくなっ'ていたのです。
 情報化社会の内にあって、我々は多くの情報を持ちそれを処理する能力を持っています。
しかし私は自分の作品であるにも関らず作品との対峙が、処理し切れない情報として残っ
てしまう事を体験しました.今、私はこうした事が芸術の現実的な機能化へと繋がるので
はないかと考えています。浮遊する作品からは幾つかの意味が取り出せ、また、一義的な
意味には回収不可能です。例えば、立体造形、彫刻として捉えた場合、台座や場所といっ
た歴史からの開放や、重力の法則への裏切りと考える事ができます。また、状況を少し変
化させれば「おもちゃ」として捉える事も可能になってしまう側面も持っています。その
事は、これらの作品が芸術ではないかもしれないという疑問符を持ち込み、芸術という枠
組み自らのアイデンティティをも揺らし、逆に言えば芸術の外部への横断と考える事を可
能にします。これら多義性の中に、私の志向する思考の立体性の具体化を図りたいと思い
ます。
 多元的、多義的であろうとすれば、作品の中に多くの要素が入りがちですが、今回のプ
ロジェクトでは、敢えて少しの要素の提示に留めます。チューブ状の浮遊する作品を、場
所との関係の中からフレキシブルに形体決定して行く、という事のみです.この提示のシ
ンプルさの要因は、私はこのプロジェェクトを私自身のみの表現というよりはプロジェク
トを成立させる為に必要な人々や場所とのコラボレーションと考えている事にあります。
 閉域にある現状の芸術の中で、作家のドグマのみに依る作家の不成立を私は感じます。
様々な人々や事柄との関係の中から産み落とされる表現に有効性を見、プロジェクトの中
で私の制作は「開かれた芸術」へ向かう為のきっかけとしてあり、私を含めプロジェクト
自身がフレキシブルである必要があるのではないか、と考えています。多くの人との関わ
りの中でフレキシブルに対応し、決定して行く。場所に対しても、その特性、状況、条件
等を、支配するのではなく共存を図り、場との対話の中で決定する。そして遊牧民の如く、
幾つかの場所を移動する事によってより多くの人々、場所との関係性の可能性を見る事が
可能になるのではないかと思います。
 私は種々の制作の中で、一元的な概念的意味に還元されない、思考の先に在る、ある種
の感覚の地層とも言うべきものの立体造形化をして来ました。今もまた、それが私をこの
プロジェクトヘと向かわせています。
                                                 市川武史

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