私はこの展覧会を見て、市川武史が作品と現実の二つのリアリティを同型性に還元しな
かったことと、同時に先頃見た別の展覧会を思いだした。その作品は、体験形式で「作品
に内在する自己の時間に、現実の時間の推移や観者(他者)の記憶する時間の流れが
どのように交錯するか」を提示したと方法論化されて、さらに「開かれた」形式ということで
評価されていた。 様々な前提が飲み込まれている印象を受けた。作品に身体的時間が
付与され、それが今度は・・・、という意味の移動は、知覚の還元ではなく、外界の知覚
への変様とその統合なのではないだろうか。
しかし、市川作品は比較などの可遡的時間性を認めないだろう。領界を決定する条件
を支配することがない。これは語る方法として不適格なのだ。これを批判的理解作用
−時に展覧会理解として理解される状況の情報化などに、方法論理解が存在するとい
う内省を含めた−としても該当しない。これらは、市川の作品が共同体の諸形式に還元
されないことを示唆するものだった(イメージは「空間」さえも)。美術のコードでもなく外部
を安易に鋒遍というわけでもない、けれども新たな普遍を織りあ げるようなポジティヴさ。
市川はそこにいてその困難に一番気がついているように思える。

                                          Kazunori Saito 斎藤一典

Return 戻る