揺らめく、透明で大きな物体。特殊フィルムにヘリウムの入ったこの物体は、予期しえ
ぬ動きを示す。所在なげに、見る人の挙動に合わせて(反して?)。その動きの過程では、
実に様々なイメージを産み落としていく。「浮遊する彫刻」は、美術館、或いは町中に設
置されるとそのままそこに居座りつづける彫刻に比べ、ある種の捉えがたい感覚を誘発す
るであろう。それは「感覚の遊戯」といえるかもしれない。この「感覚の遊戯」は、意味
性を超越し、アートの真の機能を発揮するであろう。 |
しかしこの作品は、感覚を刺激する装置としてのみあるわけではないようだ。一連の
「浮遊する」彫刻作品は、作家自身の内にある「浮遊感」に根差しているという。
「依拠すると同時に離反する自己を見、その浮遊感は、気付けば空気の如く偏在して
いました。全ての場に自分の場所は作り出す事が可能で、同時に何処にも自分の場所は
無いというパラドックス。」
特殊フィルムの質感のため、実際の作品の大きさ程には、空間を占有している量を感じ
させない。また、透明な色(?)のため、結構距離があるはずの作品の向こう側まで透か
して見える。こうしたパラドックス、或いはアンビバレンツは、作家のこのような内面に
根差している。しかし、この作家自身の内面性は、我々にも共通するものであろう。この
「浮遊する彫刻」に向かい合う者それぞれが、自分なりのパラドックス、或いはアンビバレ
ンツを感じ、その出自について思いを巡らしてしまう。
見るもの、そして作品の置かれる場所との、僅かな相関関係を取り込みながら、「浮遊
する彫刻」は微妙に存在する。見るもの、そして場との、コミュ二ケーション、或いはデ
ィスコミュニケーションがそこには生じる。そのような完全に定義することの出来ないフ
レキシビリティ−寛容さともいえるものが、この市川の「浮遊する彫刻」の魅力であろう。
(豊田市美術館学芸員:能瀬陽子)
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