インタヴュー市川武史〔彫刻家28歳〕

聞き手 斎藤一典

■少し意外に思われる方もいらっしゃるか
もしれませんが,今日は彫刻のお話をうか
がいたいと思います.80年代の彫刻はかな
り展開を見せたわけですが,90年代以降と
いうと極論ですが吉田哲也さんしかいなか
った.ところが,市川さんの作品を96年に
初めて拝見した,画家の吉田暁子さんとの
クリエイテイヴな場の機能を果たすコラボ
レーションは,またインスタレーション
(回帰的ではない)であったにも関わらず,
それ以来の彫刻と思いました.■

96年の個展は,美術を志向していく在り方
の中で,吉田暁子さんという美術家と,お
互いに双方向的に考えていこうとしたもの
です.それを表現に向かってひとつに落と
していけるんじゃないか,それは今までに
なかった関係性じゃないかと思って始めた.
それが後にBalloonTubeProject (1997)
という方向に繋がっていく.今の制作にも
結びついてくる部分というのは,自分が捨
てることの出来なかった部分をそぎ落とす
ということですね.美術は美術として成立
した時点から公共的なものにな
ってしまい個を取っ払うとこ
も出てきてしまう.その頃の僕
にとって不明瞭な部分を,吉田
さんと仕事することで明確に出
来たと思うんです.あの展覧会     
以後では,作品の要素の量が違   
ってきています.          

■単体の作品があってそれを外     
に向かって複合的に展開してき
たものと,市川さんの作品の在
り方の違いはあるわけですよね.■

96年の仕事に限定した話と,僕
自身の彫刻観というのは必ずし
も−致しません.僕は純粋彫刻をつくろう
として,これまでの彫刻のコンテキストを
背負い込むんだけど,そのコンテキスト自
体に疑問を持ちながら背負い込まなければ
ならないというのがあった.前提がないこ
とを前提とするような在り方の中でやって
いるので,当然懐疑はあります.

■例えば,ものが存在すること,ではその
存在というものがなんなのか,その間に,
詩的,物語的な彫刻や,システムが見出さ
れたとします.そこは懐疑的に背負ってる
ようにも見えます.■

最初は美術でなくても彫刻でなくてもいい
と思ったんです.でも,自分の内外から出て
こざるを得ない何かがある.その根源的,圧
倒的な事実というのは,この世の中に3次
元のものがあるということに関わりがあっ
て,それはどう思考しようが想像していた
ものと現れたものにいくらギャップがあろ
うが変わらない.そこで,ものがそこにある
ということの強度を考えて,どこにそれを
当てはめていくかと考えると彫刻以外には
なかったんですね.僕の中で名付けようと
すれば.でもそれは,それまで彫刻と呼ば
れていたものの在り方とは絶対的に違うと
思うんです.僕は何かを象徽するためにや
っているのではなく,要するにシニフィ工
のないシーニュみたいなところにいってし
まう.ただ事実,彫刻という言葉で結ばれ
てしまうということはあると思うんですけ
ど.

■そうすると話し方は難しいですね■

どう思考するにしてもある切り取りが必要
なわけじゃないですか.でも,切り取りを
つくった瞬間から自分に落とし穴を作ると
ころがあると思う.さらに言ってしまうと,
それでも何かの切り取りをするとなると,そ
れは全体に対する親切としてやることにな
っちゃいますよね(笑).僕は言葉にしない
ほうがいいと思うんです.でも,それがま
た落とし穴になっている(笑).メタの次元
に立つというより一元的な在り方に陥らな
い方法として,最初から多元の上に立つと
いう在り方で,個の自分を個ではないよう
に考えてはいます.

■おっしゃられていることを逆照射すれば,
市川さんの彫刻観なり彫刻を指すけれども,
それは再構成に向かわない‥‥‥では、単
純にインスタレーションという言葉で作品
を呼んだ時に言えるようなことはありませ
んか.■

最初の頃は,インスタレーションのひとつ
ひとつに意味合いがあるような要素の多い
ものだったんですが,それで言えることと
いうのは言われてきたことだし,僕の作品
観と違っていたんです.それをどう解消し
ようかということになると,インスタレー
ションとは最も遠いところを志向しなけれ
ばならなくなった.でもブロンズ彫刻のよ
うなものにもいけなかったんですね.どこ
にも依拠しないところを探して今に近づい
てきたんです.「浮遊」作品に関しては,イ
ンスタレーションとも呼べるけれども−つ
の彫刻としても見ることができる.だから,
それをまたいくつかの要素に還元してはや
っていけない.そこにある生成変化が必要
だと思います.定言命法化してそのルーテ
ィンワークになるのは怖いことだと思うん
です.僕の場合,常に次の生成変化させる
方法を絶えず見つけざるを得ないし,そう
いう働きを含めて自分の作品を彫刻と呼ん
でいます.

■もう少しくわしく教えて下さい.■

浮遊する作品を見て彫刻という概念自体が
出てくるのかは,あまり当てにしてないん
です.いきなり,「浮遊する彫刻なんだね.」
とは思わないじゃないですか(笑).にも関
わらず,自分の中では彫刻という思いがあ
る.でも,それをわざわざ触れて回るのも
おかしな話だと思うんですよ(笑)硬直的
な意味に取られるのなら,彫刻という言葉
じゃなくてもいいんじゃないかと思います.
僕は,あるシステムは作っているとは思う
んだけどその後は投げ出しているんです.シ
ステムを元に勝手に動いてくれる部分があ
って,自分の思いとはズレて行く.表徴で
しかないそのズレと,自動的にシステム内
部で動いていくその部分が,最も言葉にし
離いところじゃないかな.それが働いてい
る働き自体が,彫刻を感じることなんじゃ
ないかと思う.

■その点,今回の『990416→」は少し違
うようにも思うのですが.■

代置作用なのかな.『浮遊」シリーズは,い
     ろんな犠牲の上に成り立ってい
     るから.自分でもややこしいこ
     とをしていると思うんです.だ
     けど現実化して行く中では嘘は
     入りこめないですよ.

     ■そういう意味では突破口を
     いつも探しているのかも知れま
     せんね.今回は,市川さんが
     直接というより鏡に映った自分
     の作品を見たというか,ある
     一部分を拡大したような印象
     を受けた.その分,違うところ
     から再構成されてしまう危険は
     あったはずだけど,圧力が足
     りてたなと思いました.破裂
     しちゃってもいいけど.■

あらたな彫刻をつくろうという気持ちはな
いんです.これまでのものを否定するのは
出来ることだし,確かにその要素もあるけ
れども,そこから足すのか劃るのかわから
ないことがあるわけですから.
            (1999.4.21)
いちかわたけふみ
1971 名古屋生まれ
1998 多摩美術大学大学院終了
1995年からの『浮遊」シリーズほか.この
1年間に貸画廊で5回の連続個展を行う.

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